じいちゃんとばあちゃんが亡くなったのは、
私が20代の頃

私が身近に接した初めての“死”だった


10年ほど病院にお世話になり、
80歳を軽く超え、
ほぼ老衰状態で亡くなったじいちゃん

息をひきとる前の数か月間、
点滴だけで生かされていたその身体は、
まさに骨と皮だけ

その姿に、

「“死”とはこういうものなのか...」

と、衝撃を受けた


ばあちゃんが亡くなったのは、
それから2~3年後だっただろうか

ばあちゃんも数年間、
病室こそ違ったが、
じいちゃんと同じ病院にお世話になっていた

そのばあちゃんも
亡くなったときは骨と皮状態

少しじいちゃんよりも肉が付いてはいたものの、
やはり目にするにはつらい姿だった



その数年後,
もう一人のばあちゃんが亡くなった

体調を崩し入院をしたが、

「治療は一切受けない。
 治療を受けて何年も生きたくない」

と、自然に死ぬことを望み、
それから間もなくして静かに息をひきとった

そのばあちゃんはふっくらとし、
まるで眠っているかのような可愛さ

「こんなに綺麗なまま死ねるのか...」

と、驚いた



最初に亡くなったじいちゃんとばあちゃんは、
正直、
“命の尊さ”も“死の哀しみ”も、
それほど大きく感じることはなかった

実際、じいちゃんの葬儀のとき、
荼毘に付される直前の“最後のお別れ”では、
親族はもう誰も顔を覗きに
棺には近寄らなかった



“死”のイメージが変わったのは、
2人目のばあちゃんのときだった

ふっくらとした頬に、
可愛らしい死に化粧を施されたばあちゃん

その周囲にはたくさんの親族が集まった

「わぁ、ばあちゃん可愛いね~」
「眠っているようだね~」
「今にも目を覚ましそう」

そんな声が上がっていることにも驚いた

私も、

「ばあちゃん、可愛い」

そう感じた

そして、そこで初めて、
“命は尊いもの”であることを知ったのだ



そんな、
命を蔑ろにしてきた私が乳がんになった

“命”というものを
否が応でも感じさせられることになる

そして襲ってくる“死”の恐怖――


私が乳がんになったことが“バチ”だとしたら、

「きっと、命を尊ぶ心がなかったからだ」

そう思った



ひとは、誰でも年老いてゆく

若かりし頃抱いていた死への恐怖が
年齢とともに薄らいでゆくのは、
きっと生きてきた長い時間の中で、
その覚悟がついてゆくからなのだろう


「もう棺桶に片足を突っ込んでいるよ」

なんてことを言ったりする


私はすでに、

“下半身がどっぷり棺桶に浸かっている気分”


残りの人生、
あとは、“私らしく”生きてゆくだけである――




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